空が高すぎる

足元も大事だけど 空を見上げることも大事にしたい
今だからこそ
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| 2016.11.14 Monday () | - | - | - |
映画三昧 ラブホテル を観る
ずいぶんと久しぶりの投稿は
こちらも久しぶりに観た映画のおはなし。


ラブホテル

映画に詳しい方ならあるいは「今さら」感のある映画かも。
相米慎二監督唯一にして傑作の呼び声の高い
にっかつロマンポルノ。
公開は1985年だからもう20年近くも前なのですね。
僕はこの映画、
まだ若い時、深夜帯に何度か見ていたのですが
しょせん20代の若造にはわからない世界観で
しかしなんだかいつも不思議な余韻が残る映画で
ずっと頭に残るものがありました。
今回たまたま動画を拾いまして
PCで鑑賞。
いかにも昭和らしい猥雑さと退廃した空気が支配する
濃密な人間関係を描く78分。
寺田農が生きる希望を一度は失ってしまった主人公の男性を、
速水典子が彼を「偶然」救う重要な役どころである女性を好演しています。

お話はこの2人の恋の物語なのですが
そこにロマンポルノらしい猥雑さが
必然的な道具として加えられることで
なんともいえない空気をもった作品になっていると思います。
この映画、ロマンポルノらしい激しいセックスシーンではなく、
互を求め合うふたりが
どちらかがどちらかをきちんと見ていない
セックスとしてそれを描くことで
人が他者に対してしばしばもってしまう業の部分を
如実に描いているとおもいます。
これは男性だけでなく、女性の側からも同じことが言えて
それゆえ互いに惹かれ合いながら、
しかし同時に常にどこかすれ違う二人が
とても悲しくみえるのです。
でも。
それはどこかリアリティのある姿。
人の勝手な部分や、思いの一方通行が
しかしそれを断罪するのではなく
淡々と、それをむしろ受け入れるように
相米監督は描いているように思えました。

印象的なラストシーンでは
主人公の男性をめぐってそれぞれやはり「一方通行」の思いを抱く女性ふたりが
階段ですれ違います。
そこにすでに男性はいないのに
そのふたりの視線を一瞬交錯させることで
結果的に男性の存在感を際立たせる演出。
そしてその後すぐに
桜の花吹雪と無邪気な子どもたちの姿をかぶせることで
映画自体は不思議な爽やかさをたたえて終わります。
映画から得るものは
相米作品らしくさまざまでありえそうですが
40代半ばになったいまの僕には
登場人物のダメさ加減や勝手さに
むしろ共感できるところがたくさんありました。








| 2013.08.10 Saturday (21:27) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
映画三昧 死刑弁護人 を観る

久しぶりのぶらり映画です。

概ね今日予定していた作業が早めに終わったので
思い立って七藝へ。
あの戸塚ヨットスクールに焦点をあてたドキュメンタリー
『平成ジレンマ』を撮った齋藤潤一監督の新作は
なかなかなり手のいない『死刑弁護人』として
たとえば、オウム事件の麻原彰晃氏や
和歌山カレー事件の林真須美氏らの弁護人として有名な
安田好弘弁護士に焦点をあてたドキュメンタリーです。

正直言って、映画としてはどうなんかなぁ、という感じで、
おそらくそれは、監督が安田さんとの距離感を
測りかねているように思ったからではないかと。
もちろんドキュメンタリーには
撮り手が思い入れを排しているように見えるものもあるけど、
この映画はそういうのとも違うように思います。
なんていうかな、ちょっといろいろ盛り込みすぎて
焦点がぼやけているように思えるのです。

それは「マスコミ嫌い」で有名な安田さんを被写体にしたという
そもそもが冒険だったこともあるのかもしれないですし、
あるいは見ているわたし自身が、
事件の解釈や事実関係の解明に使用される論理に
気を取られすぎたのかもしれませんが。

ただ、印象に残った点を2つ。(ネタバレありです)

ひとつは、
居酒屋?での映像で安田さんが語られた
概ね以下のような意味のおはなし。

最高裁まで付き合った死刑弁護人は
死刑執行までの付き合いになる。
遺体をうけとって、葬式を出すこともある。
だってそれだけの付き合いがあった人だよ。
はいさようなら、っていうわけにはいかないじゃない。

もうひとつは、
たとえばご自分の家族が殺されたとして
それでも安田さんは死刑反対をいいますか、
という問いについて
「言うでしょうね」
と即答されたこと。

彼は「どんな人でも更生すると信じている」と語ります。
人の更生可能性を云々すること自体が
論理的に答えの出ない問いかけのように私には思えますから
逆にこうした強い信念には
素直に感じるものがありました。

わたしは個人的には死刑廃止論者ですが
そうしたわたしから見ても
マスコミが伝える彼(や)彼らの弁護の論理には
首をかしげたくなる部分もありました。
ただ、光事件のときの映像をみると、
マスコミの報道の方にも大きな問題があったようだ、
ということがよくわかります。
そういった点も含めて
いろいろと印象に残る映像ではあったなぁ、と思います。





| 2012.08.27 Monday (23:02) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
映画三昧 台北カフェ・ストーリー を観る

夕方からの予定変更で出来た空き時間。

晩御飯家で食べないよと話して出てきたので
さてどうしたものかと考えて
思い立ってナナゲイのタイムテーブルを確認。
ああ、そうそう、これやってたんだったと
時間もピッタリだったので観に行くことに決める。



久しぶりに見たドキュメンタリーじゃない映画。
とても楽しめました。

映像や音楽の使い方がまずオシャレで印象的。
モダンJAZZ(?)をとても効果的に使っているところや
舞台もおしゃれなカフェ、
主人公の姉妹がタイプは違うけど
どちらもやはりオシャレ系、と
絵に書いたようなオシャレ映画かな、とはじめは思ったんですが、
実はとても多くの人にうったえかけるテーマを扱ってると思います。

自分が生きてきた物語、
これから紡ごうとしている物語、
人とのつながりでしか確認できないこと、などなど。
こうして書くと平凡ですが、
それをおしゃれなカフェでの「物々交換」という
ちょっと突飛なアイディアで描いているのがユニークです。

物々交換は「お金を介在させないやりとり」です。
「お金」には個性はないけれど
「交換するもの」にはそれぞれの個性的な物語が存在しますから
そこにいろいろな想いが投影されることになります。
願わくはこの部分にもっと広がりがでればよりおもしろかっただろうなぁ、
と思ったのですが、まぁそれはそれ。

もうひとつおもしろいのは
劇中、台湾の人たちが物語の転機になるテーマについて
思い思いの答えをする映像が挿入されていることです。
フィクションの中にノンフィクションを入れるというこの部分をみて、
僕は、是枝裕和監督のワンダフル・ライフという映画を思い出していました。
あの映画でもそうだったんですが、
こうしてそれぞれの個性的な物語を聞いていると
いつしか自分自身もその答えを考えさせられているような気になります。

最後、「あなたにとって大切なものは」という
ストレートな問いかけがされますが、
そこで語られるいろいろな物語が、
劇中のハッピーエンドとあいまって
見る人にあたたかな思いを持たせてくれる工夫になってるなぁと思います。

まぁでも、そんなに人生うまくいかねぇよな、
といつもの悪い癖でひねくれつつ、
だけどちょっとほっこりして、
来るときよりも少しだけ明るい気持ちで帰ることができる
そんな映画かなと思います。

監督・脚本がシアオ・ヤーチュアン。
なんでも台湾の若手世代の旗手のひとりなんだとか。
どうりで映像の作り方やセリフ回しが独特。
主演の姉妹にグイ・ルンメイとリン・チェンシー。
タイプが違うけど、雰囲気のよく似たおふたり。
どちらもとても魅力的でした。






| 2012.07.20 Friday (10:37) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
映画三昧 『季節めぐりそれぞれの居場所』 を観る

不思議な余韻を残す映画でした。

午後に時間のある木曜日は久しぶり。
ということで、観たかった映画をナナゲイで。
5月に観にいった時の予告編が妙に印象に残っていて
おかしな言い方ですが、
その感覚を確かめにいったみたいな感じ。
観始めてしばらくしてわかりました。
この映画、介護の現場を描いているんだけど
ぜんぜん暗くない映画なのです。

もちろんそれは依然苛烈な状況下におかれた現場もある中で
一種、明るすぎるというか、きれいすぎるというか、
意地悪をいえばそんな風にもみえてしまうんですが
でもその感じが嫌味ではない。
映画の中で流れているゆったりした時間がなんだか心地よくて
出てくるみなさんの笑顔がすごく印象に残る
そんな不思議な余韻のある映画でした。

映画では5つの介護現場の日常をやさしいタッチで映しながら
合間に介護に関わる人たちのインタビューを挟むという
ドキュメンタリーにありがちな構成でした。
その最後に大宮監督が選んだエピソードは
被介護者として亡くなった父と
父のあとを追うように亡くなった母をもつ姉妹のお話でした。
悲しみのシーンを想像した私の予想はくつがえされます。
彼女たちはとにかく明るい。
無理なく明るいのです。
そしてそのときに映画全編で印象的に描かれたのは
登場される人たちの笑顔だったなぁ、
ということが思い起こされます。
たぶんそこに大宮監督の強いメッセージがあるのでしょう。

人が人と一緒にいることは
もしかしたら考えているよりもシンプルなのかもしれないと
思わせてもらえた映画でした。






| 2012.06.28 Thursday (21:58) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
レッドクリフ を観る
 
 仕事をしながらなので簡単に。

 三国志を描いた映画だと思うと
 見れたものではない、という感想。
 特に後編はひどいストーリー。
 あまりにもご都合主義すぎるし
 最後に曹操を逃がすにいたっては絶句・・・。
 その点は三国志との乖離を置くとしても
 あまりにも意味が分からない展開。

 ちょっとひどいなぁ、これは。
 
 ただ、クライマックスの赤壁の戦闘シーンなどは
 やはり迫力があります。
 殺陣のスピード感といい
 このあたりはさすがジョン・ウー監督ですね。

 できればこの部分を大事に
 もう少しこう、三国志の人間ドラマの部分を
 きちんと描いたものが見たいと思うのは
 贅沢なんでしょうかね・・・。



 



| 2011.01.24 Monday (00:00) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
映画三昧 『ヒロシマ・ピョンヤン 棄てられた被爆者』 を観る


きょうも七藝で。
僕にとっては避けては通れない映画。

ネタバレあります


 ヒロシマ・ピョンヤン

だいぶ前のエントリー
僕自身の「モノを考える」際の原体験として
ヒロシマの平和記念公園の
韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立をめぐる出来事をあげた。
『ヒロシマ・ピョンヤン』はさらに
この問題の広がりと根深さを伝えてくれるドキュメンタリー映画だった。
あまりにも切なく、むなしく、胸が痛い、
しかし、目を背けてはいけない映画。
そんな感想を持った。

この映画の主人公は60代の女性、李桂先(リ・ゲソン)さん。
彼女は現在、朝鮮民主主義人民共和国(以下、DPRK)に夫と娘の家族と暮らす
在朝鮮被爆者である。
映画は、彼女の現在の生活や証言を丁寧に追いながら、
日本に住む彼女のオモニ(母親)や
彼女の夫らの証言を交えながら紡がれていく。
伊藤孝司監督のこの物語構成には
おおよそ余計な編集やおおげさな演出はない。
あくまでもストレートに、率直に、
この問題が持つ意味をわれわれに問いかけてくる。

この映画の副題は「棄てられた被爆者」なのだが、
誤解を恐れずに言えば、この副題はたぶん映画のポテンシャルの半分も示していない。
もちろん「被爆者」を描いた映画であるのだが、
伊藤監督の鋭い批判の切っ先は
原爆を落としたアメリカではなく
落とされた日本に向けられていることが
何よりこの映画の哲学を物語っている。
もちろんそこには監督自身の明確な歴史認識があり、
昨今、ともすればこうした認識が反動的な風潮の中で攻撃にさらされることを考えれば
きわめて骨太な映画なのである。

ただし、である。
わたし自身も伊藤監督と概ね同様の歴史認識を持っていると思うのだが、
そのわたしから見ても、ところどころ首を傾げる描写が実は存在する。
たとえば、日本政府への批判はもちろん大事だと思うが、
同時に、現在の複雑な政治状況を作ってきた一方の当事者は
やはりDPRKであることも事実なのではないだろうか。
その点の描写があまりされていないのが残念だと率直に思う。

ただ、あえて言いたいのだが
在外国被爆者のなかでも
現在の複雑すぎる政治状況下において「棄てられてきた」
在朝被爆者である彼女たちの存在、
万景峰号の入国禁止政策が及ぼした小さくない影響のこと、
在外被爆者への政府の及び腰の政策と対照的な
広島県の医師グループの地道な活動、
原爆投下後に市内に入って被爆したいわゆる「入市被爆」の問題など、
これまであまり光が当てられなかった部分に光を当てたこの映画の価値は
寸分も減ぜられるべきではないと僕は思う。

ゲソンさんは言う。
「同じ場所、同じ時に、被爆した人間が
 民族が違う、国が違うからで差別されていいんですか」

ゲソンさんは今も後遺症に苦しんでいるが
彼女は被爆者健康手帳をさまざまな理由で取得出来ていない。
それにはいくつかの理由が語られているが、
特に重要な証言の語り部は彼女のオモニである。

ゲソンさんが入市被爆したのは、敗戦後の8月17日、
朝鮮に帰国するために「早い者勝ち」で申し込みをせねばならない、という噂を聞き
広島市内に出かけた母親につれられていった際のことだった。
当時彼女は3歳の幼子。
母親としては家に置いていくことなど到底考えられなかっただろう。

戦後、さまざまな状況のもとでゲソンさんは単身でDPRKに帰国する。
映画ではその経緯も証言から描いているが、
日朝両国は複雑な国際政治のもとで国交を断絶。
家族はその後万景峰号で行き来することでしか会えなくなる。

オモニはよく会いに来てくれた、とゲソンさんは語るが、
それでも「入市被爆」の事実は2004年まで、
実に59年間もの間隠されていた。
「なぜ?」と率直に聞く伊藤監督の問いに
オモニは「嫁にいけなくなる」と答えている。
そこに潜むのはつまり、
彼女たちにとってあまりに長すぎる「戦後」処理の問題なのである。
(付け加えるなら、被爆者の方が被ってきたこうした差別は
 在外被爆者の方だけをおそった境遇ではないところに
 この問題独特のねじれがある)

戦争が1945年に終わったのは年表上の「事実」なのだろうが、
未だに終わらない戦争がそこに確かにあった。
彼女たちの、そして伊藤監督の問いかけが持っているのは
われわれの「正義」への率直な批判であり、
そして挑戦なのだと僕は思う。

映画の最後、おもわず目を閉じて天を仰いでしまった残酷な事実は、
ゲソンさんの直前の長いビデオレターと合わせ、
観る者を打ちのめさずにはおかない。
しかしその事実こそが
この問題に残されている時間がもうわずかしかないということを
ストレートに伝えてくる。
この事実を正面から受け止めないのであれば、
単に、風化させてしまうのであれば、
僕たちは取り返しの付かない罪を犯す事になる。





| 2010.09.20 Monday (04:40) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
映画三昧 番外編 備忘録
 
ここのところ仕事の合間を縫って映画をみている。

といっても1週間に1本のペースなので
それほどたいしたことないんだけど。

きっかけは何かと話題になっていた
アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した
『THE COVE』を観たいと思ったこと。
映画館への抗議活動(抗議する相手が違うと思うけど)で
各地で上映自粛の動きがあったけど
大阪では当初から「第七藝術劇場」という
映画を本当に愛されている(と思われる)オーナーさんや
丁寧な応対をしてくださるスタッフさんが支えるミニシアターが
上映をすると決めてくれていて、
このたび安心して見に行きました。
映画の内容自体には当然賛否があると思うけれど
人が生きている状況を表象するという
ジャンルは異なるけど「同じ」仕事をする人間として
いろいろ考えさせられることの多い映画ではあります。

いつかしっかり考えたい映画なので
備忘録的に。
それからこちらも話題の映画、『告白』
昨日は「引きこもり」をイギリス人監督が描いた『扉のむこう』
それぞれ観に行ったのでこちらも簡単に。

いくつかネタバレあります


『THE COVE』

何かと話題になるけれど、
誤解を恐れずに言えば映画としてはよく出来たものだと思います。
ドキュメンタリーとは何か、という本質論をきちんと考えるには
とてもいい映画だという感想です。
少なくともドキュメンタリー=中立、と考えている人にはその主張や決め付けが
かなり暑苦しく、問題含みであるということは
いろいろなところで指摘されているとおりでしょう。
ただなんていうかな、
たとえば水銀の含有量の指摘など
「公益性」を考えれば大事なことも描かれているので
そのあたりはきちんと見るべきものがあるということでしょう。

各地で話題になっている上映自粛については
僕自身は本末転倒な話だと考えています。
この映画の何が問題で、何を批判すべきかは
当然だけど観た上で議論すべき問題でしょう。
個人的には、「太地町」という日本のひとつの町のできごとを描いた映画について
なぜそれが「日本」というナショナルな水準での問題として
解釈されねばならないのかがよくわかりません。
「反日映画」と言う前に、
太地町のローカルアイデンティティとしてそれを考えるという
冷静な姿勢が必要ではないかと思ったりします。
もちろんこの点はいろいろ議論が必要なのですが・・・。


『告白』

後味の悪い映画。
映画評では高い評価を受けていることが多いようですが
個人的には好きではありません。
ただ映像の作り方・音楽の使い方は抜群でした。

僕がいちばんひっかかったのは
原作ではなかった一言を
映画の最後、元・女性教諭(松たか子さん)に言わせた演出です。
あれですべてぶち壊し。
もちろんあれがなくても十分後味は悪いですが
でも湊さんの原作では、ひとつの落しどころがそこにあったように思います。
あるいはこうした議論にありがちな「予定調和」を壊したかったのかもしれず、
もしくは、それほどまでに、犯罪被害にあった人の加害者への思いは根深いのだ、
という主張かもしれませんが、
すべてを茶化すようなあのセリフは
観ていて不快感を覚える一言でした。

ただ演者さんはみなさんすばらしかったです。
それぞれ難しい役どころだったと思いますが
主演の松さんはもちろん、木村佳乃さんや、
何より「14歳少年の影」を演じたみなさんが。
特に、「悩める優等生」を演じた橋本愛さんがよかったです。
うん。これからも楽しみにしてます。


『扉のむこう』

うーん、一言でいうと退屈な映画。
フィクションの中にドキュメント的要素を配置しているのだけど
その境界があまりにもはっきりしているという印象。
体調がちょっとすぐれなかったこともありますが
上映中、3度ほど意識が飛びました(寝ちゃいました)。
これが「引きこもり」の理解につながるかというと・・・どうなんだろう?
あるいは僕自身がこのテーマについて慣れているので
評価が辛いのかも。
















| 2010.07.23 Friday (02:12) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
映画三昧 『渇き』 を観る
 

 

 今日から東京です。

 明日の朝からの仕事に備えて
 前日入りの東京です。
 せっかく時間があるので
 都電荒川線で遊ぼう!と目論んでいましたが
 残念なお天気。
 急遽、立ち寄った新宿の映画館(武蔵野館)
 パク・チャヌク監督の新作を観ました。

 感想。

 うーん、なんなんだこれ。
 でも、僕にとってのパク監督前作
 同様、妙に、リアルなのです。
 設定はめちゃくちゃアン・リアルなのに。

 以下、ネタバレありです




 渇き

 パク・チャヌク監督の最新作は
 「コリアン・ヴァンパイア」のおはなし。
 しかしこのヴァンパイア、
 ヴァンパイアなのにとっても人間くさい。
 それもそのはず、
 彼は実はもともとは敬虔なカトリックの神父であり、
 神に仕えるものとして、あらゆる「欲望」を
 コントロールできるものであったはずの存在。
 しかし彼があることをきっかけにヴァンパイアとなってから
 自身の中に次々に生まれてくる「渇き」と対峙し、葛藤し、
 やがて悲劇的な結末を迎える・・というのが大まかなストーリーです。

 これだけだと何のことやらわかりませんな・・・笑

 しかしそれはたぶん私のせいだけではなくて、
 映画全体がとっても散文的な構成なのですよ。
 クムジャさんでもそんな印象を持ちましたが
 とにかくストーリーのつながりがわかりにくい。
 ただそのわかりにくさのゆえに
 逆に、登場人物の置かれている状況や心象に
 見る側の多様な読み込みが可能にされているのが
 とても特徴的なんではないかと思ったりもします。

 この映画のテーマはタイトルの「渇き」そのものなのだと思います。
 現代を生きる私たちが持つ「渇き」
 それを「欲望(desire)」という比較的「前向き」なカテゴリーではなく
 「thirst」といういわば「欠乏」のイメージとして描く分
 人にとって持つ意味は重いものとなっています。
 
 主人公サンヒョンは、
 病院で日々生死のふちをさまよう人々と神とをつなぐ神父でした。
 彼はそこで、それでも死に行く人の姿に毎日のように触れ
 自身の存在に疑問を持っていきます。
 そして「人の役に立ちたい」という言葉を残して
 致死率100%の難病のワクチン開発の実験台となることを志願します。
 彼がヴァンパイアになるという奇妙な設定の元にあるのは
 実はキリスト教的には「神への冒涜」ともいえる
 こうしたサンヒョン自身の心性の問題があるのだと思うのですが
 これは物語の冒頭でいきなりチャヌク監督が
 「信仰心」と「欲望」を対立的に描かないのだ、
 と宣言したかったのだろうと私には思えました。
 つまり「人の役に立ちたい」という一見純粋な気持ちも
 そのことによって、自身の存在意義を知りたいという
 現代を生きる私たちが共通して抱え込んでいる「渇き」なのだ、と
 突きつけられたような気がしたのですね。

 そしてサンヒョンは
 ある意味では彼の望み通りに、一度は死を迎えます。
 しかし、チャヌク監督はそんなに簡単に話を終わらせない。
 彼はその治療の過程で施された輸血によって
 なんと「ヴァンパイア」となってしまうわけです。

 ヴァンパイアといえば「吸血」です。
 僕の中にあるヴァンパイアのイメージは、
 美女の首筋にこう食いついて
 ある種の官能とエロスがない交ぜとなる中で
 まさに命をつなぐものとして「血を吸う」というものなんですが
 この映画でその位置にある、
 つまり「命」と「エロス」を体現する相手が
 美しい人妻 テジュの存在なのですね。
 実際、彼女とサンヒョンは次第に惹かれあっていき
 きわめて官能的な情事を繰り返します。
 このあたりは、ある意味で従来どおりの「ヴァンパイア」ものかな、
 という気もするんですが
 そこはチャヌク監督ですから、これまた一筋縄ではいきません。

 ヴァンパイアは「渇き」を癒すために「血」を必要とします。
 これは先に書いた通りなのですが、
 この「血」の摂取方法が
 きわめて「人間的」な比喩で描かれているのが
 この映画ではとても特徴的です。
 たとえば、先のように、美女の首筋に吸い付いて・・という
 「いかにも」な描写は、実はことサンヒョンについては少ないのです。
 むしろ彼は多くの場合、より間接的な方法、
 意識不明となっている患者さんへの点滴管から吸う、とか
 病院の輸血パックを拝借する、とか
 そういう方法をとるわけですね。
 (いみじくも、彼と深い関係となったテジュが
  「ヴァンパイアって思っていたよりかわいいのね」と語っています)

 そして物語の後半では
 このテジュ自身が「ヴァンパイア」となってしまいます。
 そこにいたるまでは、一度はお互いを自身の「渇き」を癒す存在として必要とした
 サンヒョンとの悲劇的な物語があるのですが
 このテジュ版ヴァンパイアはきわめて残酷で、
 ある意味突き抜けていて、
 しかしとても活き活きと描かれています。
 実際、彼女は映画の後半になればなるほど美しくなっていくのですが
 ここでは「人間よりもずっと活き活きとしたヴァンパイア」
 を描くことによって、
 彼女のそれまでの人生がいかに苛烈なものだったのか、
 まさに彼女自身が「渇ききっていた」存在であったことが伝えられます。

 そしてそのテジュ版ヴァンパイアを見たときに私たちは思うのです。
 人の「渇き」は、ヴァンパイアの「渇き」よりもずっとつらいのかもしれない、と。

 それは物語の最後で
 サンヒョンがテジュとともに
 自分たちの存在を消そうとした際にも別の形で描かれていました。
 物語の最後、ふたりは昇る太陽に自らをさらけ出して灰となって消えます。
 一見悲劇的に見えるこのラストシーンは
 しかし直前のふたりの官能的な表情や愛情のあるやりとりがあるために
 不思議な余韻を与えるものとして描かれています。
 ある意味で二人はここで「渇き」を癒されたのかもしれない、と。

 しかしこのシーンがやはり普通と違うと感じるのは、
 通常の映画ならそこに絶対に存在しない「もうひとりの人」が
 その場に「何も手を下すことなく」関わっているからです。

 この人物、テジュの義母であり
 彼女の育ての親でもある女性なのですが、
 実は物語の中盤で、彼女は自分の息子(つまりテジュの夫)を2人に殺害され、
 この段階ではそのショックから植物人間のようになっています。
 このラストシーンに至るまでも
 実は彼女は物語でとても重要な役割を果たしたキャラクターでしたが
 彼女は2人のヴァンパイアが灰になるのをただただ目撃するという
 もっとも大切な役割を最後に与えられています。
 それを止めることも、あるいは、自分で手を下すことすらできない人、として。

 彼女は2人を殺したいほど憎んでいたでしょう。
 特に、テジュへの彼女の気持ちは
 実の娘のように愛憎の中で育ててきただけに
 なお強い思いを持っていたに違いありません。

 しかしチャヌク監督が用意したこのラストシーンは
 彼女にとっての「渇き」が決して癒されることがなくなったことを
 意味するのだと思います。
 こんなに無力で、絶望的な状況が他にあるでしょうか。

 そしてそれは、
 現代を生きている私たちにも共通するものなのだと
 この映画は語っているのではないかと思えるのです。
 チャヌク監督はそれを通じて
 現代を生きる私たちの「渇き」の複雑さを見せてくれたのかもしれません。


 主演のサンヒョンにソン・ガンホ。
 美しい人妻テジュにキム・オクビン。
 ふたりが演じる美しく、しかし、どこかコミカルで切ないヴァンパイアは
 一見の価値ありです。

 ただ最後にご忠告を。
 そこはチャヌク監督。
 全編、視覚的に「痛い」シーンがたくさんです。
 そういうのに弱い人はNGです。

 それから最後にひとつだけ。
 官能シーンの描き方でとてもリアリティがあったのは「音」でした。
 口づけで互いをむさぼる「音」と
 血液をむさぼる「音」の似ていること。
 ここにもチャヌク監督の奇才ぶりがまざまざと現れていました。
 とってもエロティックな工夫です。
 えらく感心。



 



| 2010.03.06 Saturday (23:47) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
休日 『空気人形』を観る

 天気がもうちょっとよければ言うことなかったんだけど・・・。 

 学会があったり、いろいろで
 きょうは2週間ぶりくらいの休日でした。
 午前中、行きつけの美容室に行き、
 いつものようにリラックスタイムを過ごさせていただきました。
 6月くらいから、長くしていた染髪(硬いね、表現が・・)をやめて
 最近の髪はずいぶん「地毛」になってきたのだけど、
 改めて白髪が多いことを再確認。
 ま、いいタイミングで染めるのをやめたかな、と安心。
 いきなり真っ白!なんてことになりかねないしね。

 さて、髪を切ってさっぱりした後、
 西宮OSで映画を観る。
 前売りを買ってまで期待していた『空気人形』。
 あたりでした。

 きょうのもネバばれありです・・・。


 『空気人形』

 是枝監督の最新作は
 男性の欲望を満たすために生まれた「空気人形」が
 人の心を持ったらどうなるか、というファンタジー。
 だけどその実、
 人間性やそれをとりまく社会のあり方を鋭く風刺した
 骨太な映画だと感じます。
 主人公の「空気人形」をペ・ドゥナが好演。
 是枝監督は彼女の演技に惚れ込んだとあちらこちらで語っているそうだけど
 それも納得の出来栄え。
 この映画の持つ独特の雰囲気は
 彼女の透明な存在感がなければ
 おそらく出せなかったに違いありません。

 この映画のテーマはおそらく「人間」なのだと思います。
 人間性を描くために心を持った「人形」を登場させるというアイディア自体は
 それほど新しいものだとは思わないけど
 (タイプは違うし、あちらは「ロボット」だけど、古くはアトムがその例)
 そこで描かれる世界がとにかく切なく、悲しい
 現代日本社会を写し取っていて、
 それゆえに見る者の心を揺さぶってきます。
 この映画を観る女性は、
 「自分は代用品」と繰り返し口にする
 ペ・ドゥナに自分自身を重ねるかもしれないし、
 男性は、心を持った彼女に
 「元の(心を持たない)ただの人形に戻ってくれないかな」
 といった板尾に自分を見るかもしれません。
 そういった意味で
 このブログでも以前とりあげた『ワンダフルライフ』と同様に
 映画を観るものすべてに対して
 等身大のメッセージを投げかけてくる傑作です。

 ただかの映画と決定的に異なるのは、
 この映画が強調しているのは
 楽観的な「人間賛歌」の側面よりも
 より悲しい、切ない、さみしい、ずるい、といった
 人の持つ否定的な部分だと思えます。

 ペ・ドゥナをまさに「人形」であるがゆえに「愛していた」板尾自身は、
 この映画において人の「負」の側面を示す象徴的な人物です。
 他者の性欲を満たすための「人形」としての側面を突き付けてくるのは、
 彼や、途中、弱みを握ってペ・ドゥナを「レイプ」する
 ビデオ屋の店主が表現している部分です。
 彼らはペ・ドゥナがくりかえす「代用品としての私」の側面を
 辛辣な形で突きつける人物です。

 一方、ペ・ドゥナが思いを寄せるARATAや
 途中で心を通わせるおじいさんは
 彼女が担うもう一つの側面
 「内面の空虚さ」を共有していて、
 それを互いに満たしあう相手として登場します。
 劇中、ARATAがペ・ドゥナのおへそから
 「空気」を吹き込むシーンに特に象徴的ですが、
 このシーンは明らかにセックスの対称として描かれています。
 それゆえこのシーン自体、とてもエロティックで、美しいのです。
 (もちろん「神の息」の象徴的表現でもあるでしょう)
 さらにおじさんとの間で交わされた「触れる」という行為は
 さらに本源的な水準で、
 人と人とのつながりとして描かれているのだと思います。

 しかし、前者である板尾や店長が「悪い人」で
 ARATAやおじいさんが「いい人」というように
 単純な二元論で人を分けるようには私には見えませんでした。
 たとえば板尾氏は
 彼自身、実はとてもさみしい、ある意味でかわいそうな人物で
 仕事先でけっしてうまくふるまうことができずに、
 「お前の代わりなんていくらでもいるんだ」と言われるような人でもあります。
 そして彼がペ・ドゥナに名付けた「のぞみ」という名の女性と
 おそらくはつらい別れをしていたことが明かされます。

 つまりそこで描かれているのは
 「人を人形のように扱う」人が
 実はより強いものから「人として扱われていない」という事実でもあります。
 その意味で、ペ・ドゥナへのアプローチの仕方は異なっていても
 両者には連続性があり、それが悲しさを際立たせるのです。
 そして実は映画の脇を固める多くの人々も
 みな同じように「代用品」としての自分を懸命に生きているように見えます。
 そのせいでしょうか、
 時折見せるペ・ドゥナの振る舞いが
 人が本来なら持っていそうな純粋な好奇心や優しさに満ちていて
 そこでは「人形」のほうが人間らしいという倒錯が見えるのです。
 そして映画は問いかけます。
 現代の日本を生きている私たち自身は
 はたして本当に「人間」なんだろうか、
 もしかしたら「人形」なんではないのか、と。
 彼女が「人形」であることに気付いた人が
 そろって彼女を「人間」のようにすんなり扱っているという描写が
 なお一層そのことを伝えてくるのです。

 そしてそんな世界のなかで
 ペ・ドゥナは次第に疲れていきます。
 そして「心を持つことは切ない」と漏らすのですね。
 ただ、彼女は同時に
 それでもこの世界に望みを見ようとしました。
 人形師であるオダギリ・ジョーの問いかけへの答えや
 悲劇的な結末となってはしまいましたが
 ARATAと過ごした最後の時間が描いたのは
 それでも人が人としてしか生きられないことの悲しさでもあり
 ある意味での美しさなのかもしれません。

 映画の最後、
 人形であり、用済みとなった彼女は
 「もえないごみ」として自らをゴミ捨て場に横たえます。
 それを部屋から見下ろして「きれい」とつぶやいたのは
 星野真理演じた摂食障害の女性。
 彼女が住むのは「ゴミ箱」同然の部屋。
 ここにも「人形」と「人間」との連続性が痛烈に示されている
 と私には思えたのでした。

 もうひとつ、とても印象に残ったシーンを。
 思いを寄せるARATAとのレストランでのデートで
 ペ・ドゥナはお誕生日を祝ってもらっている少女と出会います。
 人形であるがゆえに、何も知らない彼女は
 その意味を彼に聞き、
 「その人」の誕生を祝う「ハッピーバースデイ トゥ ユー」の歌を
 とても素敵な笑顔で聞きます。
 
 ラストシーンの少し前、
 ゴミ捨て場に横たわる彼女が最後に思い浮かべたのは、
 短い間ではあったけど、この世界で彼女と関わりをもった人が
 彼女の「誕生日」を祝ってくれるシーンでした。
 彼らが歌った「ハッピーバースデー トゥ ユー」では
 しかし彼女の名前が呼ばれることはありませんでした。
 (それがこのBlogで主要な登場人物を
  役者さんのお名前で書いた理由でもあります)
 それでも「自分」を見てくれて、
 その誕生を心から祝ってくれる瞬間を
 ペ・ドゥナは実に魅力的な表情で過ごすのですが、
 そのシーンがとても悲しく、美しいのです。
 そしてその幸せをこの世界の最後の思い出として
 おそらく彼女は「心」を無くしたのだと思います。
 それは彼女にとって、ではなく、
 映画を観る私たちにとってのせめてもの救いなのでしょう。






| 2009.10.07 Wednesday (18:39) | 映画を観ました | comments(1) | trackbacks(1) |
容疑者Xの献身 を観る


 最近仕事、仕事で自分の時間とやらが「死語」になりつつあるので
 ちっと危機感を感じております。
 そんなこともあって、
 レイトショーの映画を観に行ってまいりました。
 うん。はっきりいって大当たり。
 久しぶりに見応えのある映画を観たなぁ、という感じです。 


 きょうのもネタばれありです・・・


 容疑者Xの献身


 テレビドラマで好評を博した「ガリレオ」の劇場版。
 ・・・といいたいところですが、私はこれ、
 テレビ版とは異なる作品と見るべきだと感じました。
 もちろん世界観は微妙にシンクロするのですが、
 テレビ版のような謎解きの爽快感や、
 福山雅治演じる「ガリレオ=湯川学」による
 「物理学の法則」にのっとった謎解きは
 今回はずっと背後に隠れています。
 むしろこの映画のテーマは
 二人の「天才」と呼ばれた男性の
 ある意味での「悲劇」であり、
 それぞれが「人の感情」「愛情」なるものと
 形は違えど向き合う姿である、といってよいでしょう。
 その意味で、映画版にテレビの面影を求めてはいけない、
 とまずは言っておきましょう。
 ただテレビに比べて映画が楽しめないとか、いうことではまったくない。
 むしろ問いかけてくる内容の濃い
 とても重厚感あふれる作品に仕上がっていますので
 充分すぎるくらいよい映画であると思います。
 その意味でも「別物」だということですね。
 (テレビ版に重厚感はなかったものね)
 テレビ版の主要なキャラクターをそのままに、
 もうひとりの天才・数学者「石神」を堤真一が、
 彼が必死に守ろうとする女性・「花岡靖子(漢字あってるかなぁ)」を
 松雪泰子が演じます。

 この映画のもっとも重要な部分は
 文字通り、事件の「謎」解きではなくて
 湯川が(おそらく)最後まで完全には理解できなかった「謎」
 なぜ石神がそうまでして靖子とさとみを守ろうとしたのか、ということ。
 その「わからなさ」を抱えたままに
 しかし石神を思う自身の感情の揺れに戸惑い、苦悩する湯川と
 完璧に守りきれるはずだったその計画が
 こちらもなぜそんなことになったのか理解し切れなかい石神の苦悩する姿が、
 とても切なく胸に響くのです。

 湯川も石神も計算できなかったことは
 人の「感情」の部分でした。
 映画の冒頭、内海と湯川のやり取りで
 「愛は非論理的である」という台詞がありますが
 これは一方で、「論理」で人をコントロールできると考えた
 石神と湯川に対する皮肉でもあります。

 湯川は当初、石神が事件に関与していることを見抜いたとき
 内海に対して「石神が殺したのではない」と断言します。
 「石神は苦痛から逃れるために殺害を犯すようなおろかなことはしない」と。
 しかし湯川のこの「論理的」思考からの予測はもろくも崩れますが、
 そこに彼が見出したのは「石神の花岡への恋」、つまり「感情」の部分でした。

 また映画の最後、
 石神の計画は、彼が予想もしなかった結末を迎えますが、
 ここに介在していたのも、彼が守れると考えていたはずの靖子の「感情」です。
 もちろんそこには湯川の存在と言う
 彼が当初予測できなかった要因が加わっていはしましたが
 それ以上に彼の計画を狂わせてしまったのは
 おそらくふたりにとってもっともやっかいな「人の感情」という
 方程式では決して解けない「謎」だったのだと思います。 

 結局わたしがこの映画のテーマだと考えた「謎」の答え。
 そのことは、重要人物である4人、湯川と石神と内海と花岡それぞれにとって
 微妙に異なる「色」となって現れました。
 湯川はそれを「恋」と表現したし、
 石神はそれを「救われた」と表現しました。
 内海は「生かされていた」と、
 花岡はそれをしかし「重さ」と捉えたのでしょう。
 そう。劇中で重要な道具立てであった4色問題。
 石神が拘置所の天井を見上げながら
 「隣同士はけっして同じ色になってはならない」とつぶやいたように
 ここでも「4色」は交わることなく独立したものとして存在しました。
 むろんこの「隣同士が交わらない」という言葉自体は、
 この映画の縦糸である「事件」の鍵を解き明かす重要な意味を持つ言葉ですが
 僕にはそれ以上に、人と人とが根本的には理解し合えない哀しさと、
 そのことを痛いほどわかっているがゆえに
 自身の「論理的思考」を駆使し
 自分が多大な犠牲を払ってまで靖子を守ろうとした石神の希望と絶望が
 そこに示されていたように思えてなりませんでした。

 映画のラストシーン。
 内海と湯川が語り合うこのシーンへの評価は人それぞれかな、と思いますが、
 おそらくこれは
 テレビシリーズでは論理的思考でほとんど全てを完璧に明らかにした湯川が
 この事件に関しては「わかっていない」
 ということを描きたかったのだと私は考えます。
 だから最後、内海が「石神は花岡に生かされていたんですね」とつぶやいたとき
 彼は不思議そうな顔で内海を見たのでしょう。
 それはあるいは周囲の人間を論理で解釈しようとし、
 自らの「献身」をおそらく「愛」と信じ
 しかし結局重過ぎる荷物を靖子に背負わせていた石神と
 湯川がどこかで同じ人間であることを示したかったのではないか、
 と私には思えます。

 そして一度は自身の敗北を認めて感情を露わに泣いた石神が
 なお事実関係を否認しているという「小さな報告」は
 彼ら「天才」と呼ばれるものが抱え込んでいる根本的な困難を
 よりいっそう引き立てている。
 そんな風に思えたのです。
 そう。映画はこんな風に問いかけたかったのでしょう。
 「献身」と「愛」は別物なのではないか、と。

 とまぁ、長々と書きましたが
 東野圭吾さんの原作を読みたい!と強く思わされたと同時に、
 『百夜行』(テレビドラマ)で感じたのと同じ奥深さを
 今回も感じさせられました。
 いろいろ見所ありますが
 堤真一さんがとにかくすばらしいと思いました。
 靖子への電話の後に見せた表情、
 感情を爆発させ、はじめて「うろたえた」際に見せた演技は
 見るものの心を捉えてはなさないのです。
 福山さんと柴咲さんのファンには申し訳ありませんが
 今回の映画の主役は堤さんと松雪さんですね。
 その意味でもこの映画、テレビとは「別物」なのでした。
 
 

 




| 2008.10.15 Wednesday (01:39) | 映画を観ました | comments(0) | trackbacks(0) |
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